農工大工 佐藤勝昭
プロローグ
2月X日、韓国木浦(モクポ)大学の金昌大(キムチャンデ)教授から、「4月27・28日に開催される韓国物理学会(KPS)の年会に佐藤教授のカルコパイライトに関する講演を招待したい。KPSに申請をするので題名と履歴を送って欲しい」とのFAXがとどく。金昌大氏は、光州(クワンジュ)市の全南(チョンナム)大学の金化澤(キムハデク)教授(KPS副会長)の研究室で博士をとった若手研究者で、2年前に私のpubli-cationに対するreprint requestを頂いて韓国でのこの方面の活動を知ったのであるが、昨年のモルドバでの三元および多元化合物国際会議ではじめてお会いし親交を深めた方である。さっそく、招待をお受けする旨FAXで返事。その後、4月24日~4月30日に訪問することが正式決定された旨連絡を受ける。
延世(ヨンセイ)大学訪問
JAL機が金浦(キムポ)空港に着いたのが昼の12時過ぎ。ゲートの外はもうハングルの世界である。金昌大氏の他、光州の朝鮮大学の金享坤(キムヒョンゴン)教授、延世大学の朴教授の出迎えを受ける。朴教授の車で、宿泊先のスイスグランドホテルに案内される。スーツケースをホテルに残して、車で市内へ。プルコギをごちそうになったあと、延世大学の朴研究室を見学。ⅢⅤ族の薄膜成長の実験を行っている。手作りの電気炉、手作りのMOCVD装置。朴教授は立志伝中の人である。大学卒業後職がなくタクシーの運転手などをして暮らしているうち、親類の人に勧められて訪米、皿洗いやいろんなバイトをしながら11年過ごした。その間、大学・大学院とすすんでPhDを取った。延世大に帰ってからは遅れを取り戻すべく、フル回転で研究を進めてきた。いまの学生にはハングリー精神がないと嘆く。この後、ソウルの中心の岡、南山(ナムサン)にあるテレビ塔南山タワー(図1)を見学。南山から見るソウル市内はスモッグで白く煙っていた。
38度線の北、雪嶽山(ソラクサン)へ
ソウル高速バスターミナルを1時に出発、高速道路を一路束草(ソクチョウ)に向かう。束草は、韓国の東海岸で38度線の北、休戦ラインの南にある港町である。途中、5時頃38度線休憩所に着く。大きな記念碑を前に記念撮影。このあたりは、朝鮮戦争当時鉄道が破壊され、廃線になったままの橋脚などが残っている。目の前に日本海が広がる。日本海のことを韓国では東海(ドンヘ)という。海岸に沿ってコイル状の鉄条網が延々と続く。数キロごとに軍の監視所が設置されている。現在の南北朝鮮を隔てる中立地帯はあくまで休戦ラインであって、国境ではない。冷戦の置き土産が厳然と存在する。ラジオは千葉で開かれている世界卓球大会でのコリア統一チームの健闘ぶりを中継している。冷戦終結の兆しを象徴する明るいニュースである。
束草に着いたのは6時半、タクシーで宿泊先洛山(ナグサン)ビーチホテルに向かう。ここからの海岸の眺め(図2)はすばらしい。ここから10分ほどで、韓国北部随一の仏教霊場洛山寺に着く。時刻は7時を過ぎ、とっぷりと日が暮れて真っ暗な海岸の断崖にポツンとお堂の明かりが見える。無数のローソク型電球の灯明の前では、女性信者が「南無観世音菩薩」と唱えながらひれふすように祈っている。
翌朝、タクシーで38度線休憩所そばの景勝地河台(ハジョデ)に連れていってもらう。この付近には軍の訓練施設があるため海岸付近は立入禁止であるが監視所を横目でみながら岩場へと向かう。図3のように実に風光明媚な岩海岸である。隆起と沈降のを繰り返しによってできた節理のある岩はダイナミックである。東海の海の蒼さに、朝日を浴びた岩が映える。こういう美しい岬がほとんど観光客に荒らされていないのは軍事施設のおかげか。平和であればホテルが建って俗化していることだろうと思うと妙な気持ちである。
この後タクシーで雪嶽山に向かう。タクシー運転手は長年の夢がかなって個人営業が認められ、これが初仕事という。初仕事で外国のお客さんを運べるのは運がよいと喜んでいるとのことであった。雪嶽山は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との境にある山系のひとつで、夏も雪を頂く美しい山である。一帯が国立公園となっていてよく整備されている。ケーブルの待ち時間に雪嶽山の名刹新興寺(シンフンサ)に詣でる。軒を支えるひじき、タル木の極彩色が美しい。彩色の調子は、わが国の飛鳥時代の建造物の復元図に見られる極彩色に酷似しており、寺の屋根の曲線の曲率も斑鳩の寺のそれに近い。日本文化のルーツを感じた。
ケーブルは10分くらいで権金城(クェンクムソン)という峰(図4)に着く。権氏と金氏が争ったところという意味だそうで、城跡があるわけではない。ケーブルを降りてから少し歩いて、ロープを使って、ロッククライミングの要領でてっぺんの岩の上に立つ。360゜の展望が開け、まわりの柱状節理の岩山が美しい。
山を下り、束草港を見学。霊琴亭(ヤンクムジュン)という岬があって灯台と監視所がある(図5)。あたりは漁村風景で小さく粗末な漁民の家並が続く。整備された突堤に沿って歩く。釣り人がいる。海に飛び込んで浅瀬で釣っている人もいる。束草港は将来日本の鳥取などと直接交易ができるように整備を進めている。一衣帯水という言葉を思い出す。おそらく飛鳥時代には直接の行き来があったのではないだろうか。
束草港を出て束草空港に向かう。この空港は空軍基地の一部を使っているため地図に載っていない。すぐそばにきてはじめて小さな看板でここに空港があることを知る。ここのセキュリティチェックはものすごく厳格である。ポケットのものを全部出して篭に入れさせられる。カメラは電池を抜いて封筒に入れて預託になる。たんねんなボディチェックで中に入れる。国内線でもパスポート(韓国人は身分証明カード)を提示しなければならない。飛行機に乗り込んでからも上空に行くまで窓はあけさせてもらえない。さすが、まだ戦争をしている国の空港警備だと改めて日本の平和に感謝する。
デモ隊と戦警の間を韓国物理学会へ
翌朝目がさめてはじめて、「今日、招待講演の日だ」と気づく。大あわてでOHPを用意、肩掛けバッグに詰め込む。朴先生の車で物理学会の会場である西江(セガン)大学に向かう。途中、ソウル名物の交通渋滞を避けるため、延世大学の構内を抜けようと裏口から入る。車内で朴先生から「昨夜のデモで学生が戦警(チョンキョン)に殺された*。それで大騒動している。」と聞く。裏門は教官しか入れないよう監視されているらしい。延世大は反体制学生の中心地になっている。構内のあちこちに、政府を糾弾する横断幕。正門から新町(シンチョン)方面に向かって出るとき、構内に集結して門前の戦警と対峙する活動家学生の一団を見る。列の前にずらっと火炎瓶らしきものを並べ、その前でヘルメットにタオルで覆面をしたリーダーがアジ演説をしている。
緑豊かな光州(クワンジュ)に全南大学を訪ねる
金浦空港から光州へと飛ぶ。おしぼりが配られ、ジュースを飲み終わったらもう着陸態勢である。光州空港も軍事基地を利用しているため滑走路の途中で窓を締めるよう指示される。光州は全羅南道(チョンラナムド)の道庁(ドチョン)所在地である。11年前(1981年)の5月18日、民主化を求めるデモ隊を全大統領の軍隊が弾圧。おびただしい血が流れたことはよく知られている。ソウルに比べて空気がきれいで緑が多い。ソウルのような高層ビルもほとんど見られず、地下鉄もない。
韓国には地縁・血縁による強い結びつきがあり、これが地域格差のもとになっている。現在の政治経済の主要ポストは慶尚道(キョンサンド)出身者でほとんど占められ、全羅道出身者は閉め出されているという。これが、光州とソウルの格差の大きな原因となっている。こういうことを聞くと、金大中(キムデジュン)氏が光州を地盤として反体制運動の中心になっているという事情が何となくわかるような気がする。地域間対立は、新羅(シンラ)、百済(ペクチェ)以来のもので根は深いという。全南大は全羅道最大の名門国立大で、さしずめソウル大が東大なら全南大は京大というところであろうか。
ロケット電子の朴さんの車で全南大の物理学科の金化澤(キムハデク)教授の研究室に着く。白髪混じりの初老の風格ある先生である。通訳として、全南大文学部日本語学科の女子学生が来ている。彼女は来年日本の大学院に留学するつもりだという。金化澤先生は相当な大物で、今年からKPSの副会長に選出された。私をKPS年会に招待してくれた張本人が金化澤先生だったのである。私をずっと案内してくれた金昌大、金享坤の両先生は、金化澤先生の愛弟子で、今も実験はこの研究室でやっているのだという。机の上に分厚い電話帳のような本が置いてあって、背表紙をみるとナ・ナント「佐藤勝昭先生著作論文集」と印字されているではないか。「先生の論文集は、この研究室のバイブルになっているんですよ。」と金昌大先生。世界中にたとえ1カ所でも私の研究を評価してくれるところがあると知っただけでも大変な感激である。
研究室を案内される。多元化合物にCoなどの遷移金属をドープして光学的測定を行い結晶性をモニタしているという。きちんと片づいた試料準備室。手作りの電気炉。フォトルミネセンスの測定室には、5Wのアルゴンレーザ、スペックスのダブルモノクロメータ、PARのロックインアンプ、データ処理用のアメリカ製パソコン、ヘリウムガス冷却型クライオスタットなどが完備している。これだけのものを全部備えている研究室は日本でも少ない。
金化澤教授と、日本植民地時代の京城帝大出身の呉(ウオン)名誉教授に構内を車で案内してもらう。南北統一の願いを表す大きな壁画のある校舎を見る。呉先生は核物理の専門であるが、今は仏教について研究していて、文化系の学生にそういう講義をしていて、先程の女子学生も習っているという。呉先生は完ぺきな日本語を話す。彼は、河上肇の著作の影響を受けたといい、今も韓国の民主化運動の基本理念になっているという。「現在の韓国指導者は、オリンピックだ、万国博だと、日本のまねばかりしているが、悪いところばかりまねするから公害が増え、社会の荒廃がすすんでいる。技術にしても基礎から積み上げないで、日本の技術を安易に導入しようとするから、いくら製品が売れても貿易収支が悪くなるのだ。」と手厳しい。
宿泊したシンヤンパークホテルからの光州の眺め(図6)はすばらしかった。
高麗時代の名刹松廣寺(ソンクワンサ)
光州のアリランハウスで豪華な昼食をごちそうになったあと、湖南高速道路を突っ走って全羅南道随一の仏教の名刹曹渓山松廣寺に行く。高速道路は、実にしっかりと作られていて、一部は、軍用機の滑走路として用いることができるようになっている。こんなところにも冷戦の足跡が見られる。2時間ほどで寺につく。参道には、土産物屋や屋台の食べ物屋が並びにぎわっている。松廣寺には、仏教と仙術(修験道)の混交が見られる。この寺の鐘楼には、図7のように太鼓と鐘が納められている。帰りに参道の縁台でどぶろくを飲み、にぎやかに語り合う。
その夜、全南大学の学生運動家の女子学生が大学構内で焼身自殺。これが、その後全国で9件も続く焼身自殺フィーバーのきっかけとなった。
木浦の海はエメラルドグリーン
翌朝、全南大をはじめ、朝鮮大も学生の抗議集会が予定され騒然たる雰囲気だという。全南大での討議はあきらめ、金昌大先生の車で木浦へ。木浦大学の研究室を見学。教官室だけで実験装置は全く置いてないという。木浦では教育のみ、研究は全南大でと決めている。それから、車で木浦市街地へ。市のはずれにある東洋画の美術館を見物したのち儒達山(ユダルサン)に登る。秀吉の朝鮮出兵(文禄の役;韓国では壬申倭乱)に勝利した李舜臣の銅像がそびえ立つ。展望台に立つと風は強いがよく晴れて、エメラルドグリーンの海、木浦港の港町の家並、クレーンの並ぶ造船所などがよく見える。日本統治時代のロシア領事館の煉瓦建ての洋館が残っている(図8)。光州への帰路、木浦大学前では、ちょうどデモ隊が校門を出るところで戦警とのこぜりあいの最中。しかし無事光州に戻る。 ソウルのにぎわい
空路ソウルへ。金浦空港からタクシーでホテルに向かうが、ソウル市内に入った途端交通渋滞が始まる。大学の集まる新町(シンチョン)付近でデモ隊と戦警の衝突が起きたという。新町交差点に近づくと、ずらりと並んだ装甲車の列。しかし、市民は遠巻きにするだけで、投石などに参加している様子はない。タクシー運転手は直進をあきらめ、Uターンして大きく迂回してホテルに向かう。テレビは、深夜になってデモの様子と、内相の辞任を伝える。
学生のデモなどどこ吹く風のにぎわいを見せる明洞(ミョンドン)商店街、ソウルのアメ横、南大門(ナムデムン)商店街。金昌大教授の教え子の女性がその商店街の中の雑居ビルの中で宝飾店を営んでいる。教授は私のためにお土産を買ってくれる。狭い通路を人とぶつかるようにして外にでる。
地下鉄、高速道路が縦横に走り、高層ビルのそびえるソウル。88年にオリンピックを成功させ、93年に大田(デジョン)で万国博を開催予定、ソ連との国交、国連の南北同時加盟・・と万事登り坂の韓国。しかし、韓国の貿易収支は年間ペースで70億ドルの赤字で、総貿易額の10%におよび、経済状況は必ずしも明るいものではない。英字新聞は、学生運動の背景などを詳細に論じている。本年の春の学生の就職状況は悪く、卒業生の49%が就職できなかったという。そして、過激な学生デモ:20年前の日本の姿を垣間みる。こんな韓国にあって、じっくりとした基礎研究こそが重要と説く金化澤教授を中心とするグループの今後の健闘を祈って、ソウルをあとにした。
カムサハムニダ(ありがとう)。アンニョンヒキェシプシオ(さようなら)。