佐藤勝昭(農工大工)
標記会議が1990年 9月11日から14日の4日にわたり、ソ連モルドバ共和国の首都キシニョフで開催された。ペレストロイカによって急速に変貌を遂げつつあるソ連の一共和国の印象を記す。(一部は、物理学会誌談話室に掲載)
1.たいへんだった現地入り
1990年8月半ば、現地組織委員会からの招待状を添えてソビエト大使館にビザの申請に行った旅行業者から、「大使館では、モルドバへの入国は無理だといわれた」との連絡。大使館に電話すると、「モルダビア科学アカデミーは、外国人を勝手に招待する権限をもっていない。ソ連科学アカデミーの招待ならべつだが・・」という。組織委員会に国際電話をいれるが、まったくつながらない。論文募集要項を見てもファクス番号もテレックス番号も書いてない。しかたがないので、国際諮問委員会のシュワブ委員長(仏:Strasbourg)に国際電話。「組織委員長のラダウトサン教授はソ連科学アカデミーの会員でもあるから、ソ連大使館に電報を打つよう頼んだらどうか。私もなんとか連絡を取ってみるが。」とのこと。何度かのやりとりの末、ビザがでたのは1週間前。あとでラダウトサンから聞いた話であるが、組織委員会は、東京のソ連大使館に3回も電報を打ったとのことであった。バクー(アゼルバイジャン共和国)の共同研究者のところにも立ち寄る予定であった筑波大の新井先生にはついにビザが下りなかった。ソ連がオープンになったといってもモスクワやレニングラードの話で、地方へ行くのはまだまだ大変であるのが実状である。
とにもかくにも、9月9日無事成田を出発。日本人参加者13名のうち先に出発した4名を除く9名が乗り込んだアエロフロート機は一路モスクワへ。映画もなく、イヤホーンの音楽もない窮屈な機体、お世辞にもうまいとはいえない機内食・・。
モスクワのシェレメーチェボ国際空港で遅い粗末な昼食をとって、国内線のブヌーコフ空港に向かう。シェレメーチェボはモスクワの南部、一方、ブヌーコフは北部にあるので、市内を通らず環状道路を使う。インツーリスト(ソ連交通公社)の用意してくれた大型バスでたっぷり2時間。たった9人でも大型バスを用意するところがいかにもソ連らしい。車が結構多くて、対向車線からセンターラインを無視してはみだしてくるのでかなり危険である。空港に着くとすっかり日が暮れている。キシニョフ線は、メーンターミナルのはずれの別館が待合室。なんと、搭乗手続きのカウンターにコンピュータがない!おばさんが、カーボン紙を何枚もはさんだ伝票にボールペンで書き付けている。待合い室のテレビは米ソ首脳会談を写しているが、まったくことばがわからない。
2.真夜中の空港に迎えの人々
キシニョフの空港に着いたのは現地時間の夜中の12時。人気のない真っ暗な空港...。インツーリストの人は迎えにきていない。どうしたものかとの心配も束の間、英語で「日本からの参加者か」との声。車で迎えにきてくれたICTMC組織委員会の人々の心遣いに感謝。大きな旅行鞄をいくつも屋根にくくりつけた中古車は、車の途絶えた真っ暗な道を時速100キロで街の中心部のインツーリスト・ホテルへと向かう。部屋の割当が予約と違っているの、シングルとツインの数が合わないのと一悶着ののち、部屋にはいったのは2時を過ぎていた。シャワーをひねっても湯がでない。
翌朝、ベランダにたつと朝の風が肌にさわやかである。目の前に広大な景色が広がる。ホテルの真正面にモルドバ科学アカデミーの堅固なビル。その後ろのロシア正教会のタマネギ型のドームのブルーが目に鮮やかである。
3.四年ぶりの会議開催にこぎつけたソ連の努力
翌朝8時半から、会議の参加登録が科学アカデミーの建物の1階で始まる。組織委員長でアカデミー副総裁のラダウトサン教授が、大きな身ぶりと満面の笑顔で迎えてくれる。
ICTMCは、英国の故パンプリン教授の提唱で1973年のバース(英)に始まり、75年にはストラスブール(仏)、77年エディンバラ(英)、80年東京、82年カリアリ(伊)、84年カラカス(ベネズエラ)、86年 スノウマス(米)と続いてきた会議で、ダイヤモンド系列の三元多元化合物を中心にその外延の化合物をさまざまに加えながら発展してきた国際会議である。86年の会議の後、本来はブリエ博士を委員長として88年にニース(仏)での開催が予定されていたが、フランスの国内事情のため中止のやむなきにいたり、国際諮問委員長シュワブ博士と、ラダウトサン博士の努力により急きょキシニョフ開催が決定されたものである。2年で開催にこぎつけたソ連の対応の速さは、この国の変革を印象づけるにじゅうぶんであった。
登録が済むと、招待講演者の入江教授と私は、ソ連幹部用の高級ホテルである「コドルー」に車で案内される。このホテルはインツーリストホテルとは比べものにならないくらい部屋の作りがよい。シャワーもよくでるし、トイレットペーパーも上等のが置いてある。招待講演者と、一般講演者に厳然とこういう差別待遇をするのはいかにもソ連的で、西側諸国では考えられない後進性だ。インツーリストに宿泊した仲間に申し訳なく感じる。
3.非晶質や高温超伝導を加えて大きな会議に
ソ連は、三元多元化合物研究の発祥の地でありこの方面の多くの研究者がいるにもかかわらず、これまでの会議にはほとんど発表がなかった。また、プログラムにはあっても講演が取消されることが多かった。それだけに、彼らは今回の会議にはひときわ熱が入っていた。また、ソ連国内の事情から、今回のICTMCには、高温超伝導酸化物と多元カルコゲナイドガラスがメーン・テーマとしてつけ加えられた。このため講演申し込みは600件におよんだため採択数も393件にのぼり、従来の慣例を破ってパラレルセッションの形で運営されることとなった。
組織委員会の発表した今回の参加者数は、全体で370名である。内訳は、地元モルドバ120名、他のソ連内共和国174名、外国76名であった。講演件数は当初予定されていた393件に比べ140件減の253件(内、招待講演25件、口頭発表68件、ポスター講演160件)であった。取り消された講演の大部分はソ連国内のもので、ソ連研究者の講演取消の習慣は外国への発表だけでないことがわかる。このため、大幅なプログラム変更となり、最終日の午後の講演を全部他の日に振替えて、閉会式だけにしてしまった。プログラム変更も当日の朝にさりげなくA4一枚の紙を貼るだけ。情報伝達方法の不慣れが目立った。
とりあえずプログラムに基づいて分類をしておく。プログラムによる国別の発表件数は、ソ連269件、日本18件、イタリア14件、フランス6件、韓国・ポーランド各5件、インド4件、ドイツ・チェコ・カナダ各3件、その他であった。会議は、口頭講演がモルドバ教育センター、ポスター発表は、少し離れた訓練センターを会場として行われた。教育センターのメーン・ホールには、「私たちがめざすもの。それはヒューマンで民主的な社会主義である。」とモルドバ語とロシア語で大書されていた。
5.バラエティ豊かだった講演テーマ
内容別にみると、カルコパイライト形半導体60件、AB2X4形欠陥カルコパイライト・層状化合物11件、Tlを含む多元化合物10件、スピネル形半導体31件、半磁性半導体13件、混晶半導体53件、カルコゲナイドガラス39件、高温超伝導材料61件、その他の多元材料30件であった。
前回の米国での会議が、SERI(太陽エネルギー研究所)を中心に運営されたためCuInSe2を中心とする太陽電池材料への関心が主なテーマであったのに対し、今回の会議のテーマは はるかにバラエティーに富んだものであった。
特に、Siから出発したダイヤモンド系列の他、Biから出発してBi(Ⅴ族)→PbS(Ⅳ-Ⅵ)→TlBiS2(Ⅲ-Ⅴ-Ⅵ2)と続く層状多元化合物や、A2BCX4、A4BC2X7、A2BC5X8、A3BCX5などの四元化合物にも焦点が当てられたことであろう。実際、非常に複雑な多元化合物の平衡状態図(相図)をきちんと作っていくような地道な研究はソ連のお家芸で、カルコパイライト型化合物についてもパラトニクたちの昔のデータがよく引用される。日本では少なくなった相図作りの地味な研究に、ソ連では今も多くの研究者が取り組んでいることを知り、ソ連の研究の底の深さを感じた。しかし、基礎研究といえどもペレストロイカの波から無縁ではないという。研究の効率化を求める余りこの種の基礎研究の中断につながることのないことを祈るばかりである。
東独からの基礎研究者も西独との統一を前に、表情がさえない。東独にはたくさんの国立研究機関があるが、設備が貧弱で、大きな投資をしなければ生き残れるものはほとんどない。統一ドイツでは国立研究所は財団の運営になるが、「西」の目でみて「東」の研究は基礎研究が多すぎるということで、かなりの整理が行われるだろうとのことであった。
高温超伝導については、90%がソ連からの発表であり、とても国際会議と呼べるものではなかった。物質別では、YBaCuO系が40%、Bi系が16%であった。ソ連にはペロブスカイト型化合物研究の長い伝統があるため、結晶成長、LPE、結晶構造の研究、熱力学的な安定性の研究に見るべきものがあったが、特に大きな展開はなかったような印象を受けた。
また、スピネルをはじめとする磁性半導体の研究は、西側諸国では1970代以降完全に下火であるのであるが、ソ連では現在も非常に盛んであるという印象を受けた。特に、ZnMn2As2という新しい強磁性半導体(Tc=320K)の発見はニュースといえよう。
カルコゲナイドガラスは、もともとソ連のゴリューノバ女史が発見したものである。このためソ連ではこの関係の基礎研究が今も盛んである。筆者にとって面白かったのはⅡ-Ⅳ-Ⅴ2カルコパイライトの無秩序相には閃亜鉛鉱になるものとガラスになるものがあり、原子半径比で説明できるというような話で、これは結晶学的にも面白い話題であると思った。
6.コンサートの女性ボーカルに酔う
会議初日の夜のレセプション、2日目夜のコンサート、3日目のバンケットと、会議以外でのプログラムも充実していた。特に、2日目のコンサートはすばらしいものであった。民俗衣裳を身につけ、民俗楽器を加えたにぎやかなオーケストラの演奏やコサックダンスなどはたいへん楽しいものであったが、中でも、圧巻は共和国随一の人気女性ボーカル、ジュリアさんのすばらしいソロであった。民俗歌謡も、カンツォーネもなんでも朗々と歌い上げ盛り上げる声量に、「これを聞いただけでもはるばる来た甲斐があった」とは日本人参加者の偽らざる感想である。こういう大歌手を呼んで来ることのできるラダウトサン教授の実力に改めて脱帽した。
7.共和国政府の屋上に翻る三色旗
モルダビア最高会議は、私たちの到着の3カ月前に、主権宣言を発し、自らをモルドバ共和国と改称、ルーマニア語の一方言であるモルドバ語を公用語とすることを決めた。これにともない共和国政府のビルの屋上には、それまでの赤地に緑線の旗に代わって赤黄青の三色旗が翻り、通りの名もすべてモルドバ語に書き変えられた。たとえば、メーストリートの「レーニン通り」は15世紀の民族的英雄の名に因んで「大ステファン通り」と改称されローマ字表記となった。街の看板も新しく書き直されたローマ字のものがクリル文字に混じって見受けられた。イタリアからの参加者によると、モルドバ語はラテン系の言語なので1/3くらいは理解できるとのことであった。実際、八百屋にはlegumeと書かれていたが、これは野菜を表すフランス語l gumeと同じ綴である。
街はクリーンで、中心のプーシキン公園(図5)も美しい。「エフゲニ・オネーギン」「大尉の娘」などで有名なプーシキンは一時期キシニョフに住んでいた。旧市街にはプーシキンのいた家が保存されている。
キシニョフ中心部の人通りは多く、市場の食料品も比較的豊富で、人々の表情は、モスクワに比べ明るく活気があった。ラテン系民族特有の楽観性もあろうが、独立の道を歩み始めた新しい国の幕開けに対する自信と期待もあるように思われた。しかし、道に乞食がいたり、通りすがりにタバコをねだる人、肩にかけたキャノンを譲ってくれと声をかける人、悲しい風景である。たまたま、時計の電池がなくなりデパートにいったが手にはいらず、新品を買おうと思ったが、申し込んでしばらくしないと入手できないという。しかたなく、ドルショップ「白樺」で20$でソ連製のスラーバを買った。なつかしのゼンマイ式(自動巻き)27石である。時計バンドをつけてくれといったら、白樺には時計職人がいないという。しかたなく、デパートの時計修理コーナーのおばさんにお願いした。
8.テレビ座談会に出演
会議3日目の昼、突然ラダウトサン教授に呼ばれて、車で放送局に。なんと彼は、「科学をあなたに」という自分の定時番組をもっていて、その番組で「三元および多元化合物国際会議」の各国の参加者の座談会をやるのだという。しかも、リハーサルなしのぶっつけビデオどり。倉庫を改造したようながらんとしたスタジオに、ソ連製のでかいカメラが3台ならぶ。NHKで20年くらい前に使っていた大きさである。オンエアランプは黄色であった。シュワブ博士に、「佐藤、NHKでの現場を思い出すだろう」とからかわれる。 ラダウトサンが司会をする。フランス人、カナダ人に質問するときはフランス語、ルーマニア人にはルーマニア語、インド人と私には英語でにこやかに語りかけ、我々が話すと、カメラに向かって、ロシア語で説明する。質問は、「なぜ、キシニョフか」、「モルドバの第一印象は」、「三元化合物の将来は」ということで、出席者一同あたりさわりのないことを答えていたが、ラダウトサンは身ぶり手振りよろしく最後をみごとに締めくくって、45分きちっとで終了、NGなしという見事な司会ぶりで、まったくの名タレントぶりにまた舌を巻いた。
翌日、TV局から50ルーブルの出演料が届けられたことを付記して置く。
9.ハイテクに将来を託す
モルドバは、ソ連の構成共和国のうちで最も人工密度が高い国である。これはソ連の南西部に位置し、黒海も近く、非常に平坦で(最高の岡でも海抜300メートル)、温暖、かつ肥沃であるということによる。欧州一のブドウの生産量を誇り、おいしいモルダバ・ワインが特産である。2日目のエクスカーションでワイン貯蔵庫を見学した。建築用の石灰岩を切りだしたあとの巨大な洞窟が地下貯蔵庫となっており、迷路のように入り組んだ地下道のあちこちにワイン樽がならび、管理が行き届いている。また、この洞窟には世界中のワインが貯蔵されている。最後に試飲会で各種モルドバワインをごちそうになった。
農業だけでなく工業も盛んである。最終日の午後、モルドバ共和国工業大臣のご招待で工業展示場を見学した。ここでは陶器、家具、絨毯、刺繍など芸術性に優れた伝統工業製品を展示していた。テレビ・洗濯機・冷蔵庫など家庭電化製品の工業、さらには、超音波発生装置の製作所もあり他の共和国や外国に輸出している。また、モルドバの科学アカデミーの物理学研究所はレベルが高く、半導体産業をバックアップして、256キロビットLSIの生産を進めているとのことであった。
遅れているコンピュータ産業の育成が急務であるという。ワイン貯蔵所見学の帰り、ラダウトサンは入江教授と私をわざわざ彼の公用車ボルガに乗せて建設中のコンピュータ工場に案内した。コンピュータ技術者養成のための専門学校も付設されていて、かなり大規模なものである。コンピュータ工場は建設途中で中断されているようすで、イタリアまたは日本の企業の参画を待っているとのことであった。しかし、ハイテク産業を支える交通・通信・流通いずれにおいてもインフラの整備が遅れている。この点でも日本に対する期待は大きいものがあった。しかし、ビザがなかなか下りず、日本への手紙(航空便)だって30日かかる現状では・・・。
モルドバの独立の意気は高く、将来は日本とも直接貿易や人物交流をしたいというのが、彼らの熱い希望であった。
10.忘れ得ぬ人々
ユーリ君:英語ぺらぺら、日本語もかなりいける。会議前日、外国人を乗せてマイクロバスで市内を案内してくれた。2年前までなら確実に収容所送りになるようなことをズケズケいう。モルドバが真に独立国であったのは15世紀の大ステファンのときだけで、たったの57年間だという。古くは、ローマ帝国、そして、トルコ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア・・と何度も支配者が変わった。最後の仕上げがソ連であったという。この人の先生が親日家で、この先生から日本語を習ったという。
イワシチェンコ博士・ポプショイ博士:彼らは、モルドバ科学アカデミー物理研の所員である。イワシチェンコ氏は1978-1979年に夫人とともに青木昌治教授(東大工学部)のもとに外国人特別研究者として滞在した経験を持ち、大の親日家である。多少日本語がわかるので、日本人参加者の面倒見役をやってくれた。細かいところまでよく気の付く人である。ポプショイ氏は同じ研究所のまだ35才の若手研究者。明るく、気さくな感じの人。理論的な研究を行っている。趣味は油絵。
2人は、閉会式の翌日、増本、入江両教授と私をドライブに誘ってくれた。図6のような湖をのぞむ小高い丘に敷物を広げてポプショイ夫人手作りのお弁当をいただいた。忘れ得ない思い出である。このあと、民芸博物館(図7)に連れていってもらう。陶芸・屋根飾り・刺繍・絨毯・・高度な民芸品の数々。民衆の芸術性を感じる。
夜は、ポプショイ家によばれ、ご馳走になる。よく片づいた3Kのアパートに平均的なソ連市民の家庭を見る。220ルーブルの平均月収、奥さんの収入とおばあちゃんの年金をあわせて500ルーブルの生活は決して楽ではない。家が狭いので、油絵を描くときは、タンスの引き出しを半分出して、その上にキャンバスを立てて描くという。絵の具などが手にはいりにくいと嘆いていた。ちょっとシュールなモダンな絵であるが、技術的にはもう一歩という感じ。小さいアトリエをもつことが夢だという。
アクセノフ君:白ロシア共和国ミンスクの科学アカデミーの研究員候補、28才。カルコパイライト半導体の結晶成長とCLをやっている。前々から、日本に手紙をくれて、ポストドックを私のところでやりたいという。この国際会議にも来ていて、話し合う。なかなかの好青年で、英語がうまい。ロシア人は一般にポスターセッションのプレゼンテーションが下手であるが、アクセノフ君は、きれいなポスターを貼っている。日本に帰ったらすぐ日本学術振興会に申請してあげると約束した。9月30日締切なので、17日帰国後すぐ申請。今年の1月、日本学術振興会から採用の通知が届いた。喜ぶ顔が目に浮かぶ。無事出国できるとよいと祈っている。日ソ親善の小さな架け橋になることを願う。
11.次回ICTMCは横浜で
会議開始前日(9月10日)に開かれた拡大諮問委員会において、日本の組織委員会を代表して入江(組織委員長)、佐藤(実行委員長)が次回会議(ICTMC-9)を1993年8月10ー13日に横浜で開催したい旨提案し、全会一致でこの提案が可決された。これを受けて、会議最終日の閉会式で、佐藤が次回会議への参加を呼びかけた。
ICTMC9は今回の会議のような大会議ではなく、こじんまりしているが密度の高い会議にしたいと思っている。各方面のご協力をお願いしたい。