エグゼクティブサマリー
自然界は種々の物質からなる多様な混合物で構成されており、そこでは多くの化学反応
が同時進行的に起きている。我々、生物の体内も状況は同じであり、血液中では無数の物
質が入り混じって流れている。これは自然界がエントロピー最大化に向かって流れている
ことから生ずる必然の結果ともいえる。このような中で、人間が持続可能な社会を実現し、
そこで生きていくためには、混合物から有用な物質を選別して取り出し、不要物を取り除
く作業が必要となる。この作業はエントロピーを減少させる事を意味し、そのためにはエ
ネルギーの投入が必用となる。このように、目的となる物質を高精度に且つできうる限り
低エネルギーに分離するプロセスは、物質合成と並ぶ化学の基本プロセスであり、産業に
おいても極めて重要な位置を占めている。
事実、例えば今後予想される世界の人口増による、著しい水資源の不足に対処するために、
廃水処理や海水淡水化での分離技術は必須になっている。シェールガス・シェールオイルが
エネルギー源として大きく期待されているが、その採掘時に生ずる大量の汚染水が深刻な
環境問題を引き起こす懸念があり、ここでも有効な分離技術が求められている。
さらには福島第一原子力発電所事故に伴う大量の汚染水に含まれる放射性物質の分離、
再生可能エネルギーの一つとして期待される微細藻類からのバイオ燃料精製時の脱水分離
など、多数の社会的かつ産業的な価値を産み出す分離が重要視されている。
これら液体に関する分離工程では、従来、蒸留プロセスが多用されてきたが、石油化学
産業の消費するエネルギー内の約40% を蒸留操作が占め、低エネルギーの分離技術が求め
られている。一方、気体においてもPM2.5 のような大気汚染物質の分離が、また火力発電所
で大量に発生する温暖化ガス(CO2)の分離・回収の必要性、また将来の水素社会の到来に
伴い、高純度の水素の分離・貯蔵が産業的に重要になっている。
固体における分離は鉱物資源の選鉱、製錬、精錬から始まるが、世界の資源国におい
て良質の鉱山は減少しており、ヒ素等の有害な物質を多く含む低品の採掘に着手せざ
るを得ず、目的とする物質を低環境負荷、低エネルギーで分離する事が要求されている。
このようにして得られた資源をもとに人類は多様な製品を工業的に生産し、消費していく。
使用後に廃棄される大量の製品群は、鉱石のような自然界の混合物に対し、人工的混合物
とみなすことができるが、リサイクルするためには再び分離の対象物となり、物質循環が
課題となる。現状ではこれら自然界の混合物と人工的混合物の分離を共に実現するうえで
の、技術的、経済的乖離は大きいが、将来の社会において持続可能な物質循環を成立させ
る意義は極めて大きく、目を背けてはならない。
一方、生体に目を向ければ、特定の細胞、
タンパク質などの生体物質の分離においても、疾患の早期診断・治療、低侵襲治療や、医
薬品成分など、高精度で高速の分離プロセスが要求されている。これらバイオ系物質の分
離においては、分析と一体になった技術開発が必要であり、しかも上記の気体・液体・固
体の分離技術と異なり、患者の負担を減らす目的で、あるいは元々体内に少量しか存在し
ないことから、極微量での分離・分析が求められてくる。
このような中で、本提言が取り上げる分離工学イノベーションとは、複数物質の混合状
態にある混合物から、目的とする物質だけを取り出す/または不要物を取り除く等の分離
操作を、従来に比して格段に低エネルギー且つ高精度におこなうことを目指すものである。
化学工学に代表される、既存の学術体系によって構築されてきた分離プロセス・機能を、
現代の科学技術・イノベーションの観点から、そして将来社会・産業の要請から捉え直し、
異分野科学技術の連携・融合から得られる知識と技術によって革新する取り組みを提案す
る。今、分離がキーとなるような社会・産業的に重要な諸課題に対し、分離過程を支配す
る共通の科学的原理に立ち返りつつ、工学的手法によって目的物質の分離を実現する分離
工学イノベーションが求められている。
一般に分離の基本原理は、機械的分離、平衡分離、速度差分離に大別される。本提言で
は、近年のナノテクノロジーや先端計測技術、シミュレーション技術の飛躍的進展を活用
し、これら基本原理と、分離操作を担う媒介となる材料・デバイス・プロセスを、原子・
分子レベルで制御することによって、従来は困難であった低エネルギー・高精度な分離操
作の実現を目指す。通常、分離対象物質の単位エネルギーあたりの処理量と分離性能は、
トレードオフの関係にあるが、分離性能を高く保ったまま、必要な処理量の分離を実現す
るイノベーションが目標となる。そこでは、個別に確立されてきた技術手法だけでは突破
できない分離を、技術融合や新材料・デバイスの導入、反応との組合せなど複合化するこ
とによって、大きく凌駕することが求められる。すなわち、分離工学を体系化し、横断的
な取り組みからイノベーションへ結びつけることを目指す。
本提言で扱う分離の対象課題は、大別した3 つの主要ニーズ・方向性に分類される。
1. 気体・液体の分離、2. 鉱物資源・固体の分離、3. バイオ・医薬食農系の分離、である。
さらにこれらを横断する共通基盤的課題が重要であり、ここでは特に学術界の貢献が求め
られ、例えば混合溶液中の相分離過程や結晶核形成メカニズムの解明と自在制御、それら
を把握するためのその場計測技術や、計測不可能な現象を把握するためのシミュレーショ
ンモデルの確立などが主要課題となる。上述の3 つの方向性は、それぞれに求められる
分離のスケール・規模や精度が大きく異なり、目的に応じて適用すべき分離技術またはそ
の組合せ、システムも異なってくる。要求分離性能は用途によって決まり、それぞれの性
能を実現するためにはコストも意識した新しい分離技術・プロセスや分離素材の開発が必
要である。
1 の気体・液体の分離では、吸着分離、膜分離、吸収分離、の各研究開発課題につき
本報告書では述べている。これらの分野では各種ゼオライトや、MOF(Metal Organic
Framework: 多孔性有機金属錯体)、ナノカーボン材料といった新材料が、またイオン液
体や超臨界流体などを用いた次世代型分離技術が登場しているが、蒸留などの分離技術代
替への障壁は高く、新技術だけに頼るのではなく、既存分離技術との組み合わせによって、
プロセス・システム全体として分離性能の大幅な向上を図ることが重要となる。
2 の鉱物資源・固体の分離では、リサイクル製錬、金属製錬・基礎学理について述べて
いる。製錬技術の歴史は長く、成熟した技術分野と見られがちだが、依然として分離が困
難な重要な元素ペアが多い。近年のナノ加工・評価技術、計算科学・モデリング、データ
科学の進展を取り入れる事により、この分野は大きく変貌する可能性を秘めている。
3 のバイオ・医薬食農系分野の分離では、感染症等の原因物質の単離や簡易検査、疾患
関連成分の精密検査、植物・食品の有効成分分離につき述べている。生体には未解明の機
能分子が多く存在し、機能分子間の相互作用の理解が十分でなく、機能的に連携する分子
群を、その機能・状態を維持したまま特異的に分離・分析する手法の開発や、解析結果を
統合して最新の情報科学によって解析することが求められている。
以上、分離の対象によりその装置や設備のスケールはトンを超える巨大なケースからピ
コリットル、フェムトリットルの超微量の世界まで多岐に渡るが、その根本原理は、ナノ
メートルサイズの分子の持つ形状、物理的、化学的、電気的性質の違いに基づき、分離を
行う点で共通する。すなわち、対象物質の物理的形状や大きさに対応した物理的な構造を
用意し、対象物質の化学的親和性の違いを利用して分離していく。この意味で、これら分
離プロセスを分子レベルで理解し、新手法、新材料の開発により分離工学のイノベーショ
ンを引き起こすうえで、横断的共通基盤技術の確立が重要である。これらを主体的に担う
学術界への期待も大きい。産業界と学術界との役割分担および連携がまさに求められ、そ
の推進方法についても述べている。